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はせくらみゆきのマンスリーことのは通信

あけの会 マンスリーことのは通信2023年3月

皆様、こんにちは。お元気ですか?
立春が明けてあっという間の二月を終えたかと思うと、
もうやよい三月となりましたねー。

日によってはまだまだ寒い日もありますが、
風は確かに春を告げていて、
柔らかな風の匂いや質感を感じるたびに、
なんだかほっこりと幸せな気持ちになります。
季節感がしっかりある国に住めていて幸せですね。

さて、今日は私が今ハマっている縄文時代のお話より、
え~、そういうことだったのかと驚いた歴史について、
シェアしたいと思います。
それは、婚姻と子育ての歴史について。

縄文時代…いえ、もっというと江戸時代まで、
私たちの御先祖様は性に関する見方が、
結構おおらかだったことを初めて知りました。
また、祭祀や儀式を通しての男女間の物語があったり、
歌垣という呼び合いをしながらの営みもあったようです。

そしてそれは現代人が思う善悪、正否の感覚ではなく、
優秀な子孫を残し、次世代に命を繋ぐための、
大切な行いであり風習でもあったとのことです。
そして、無事、産まれてきた子供は、
その地域(ムラ・コミュニティ)の皆で育てます。

とりわけ、年配の女性が中心となって、
子ども皆を育てていきます。
なぜ年配の女性たちが主となるのかというと、
若い男女たちは、狩りや採集など、それなりに仕事があるので、
子育ては「母系制」として皆の宝だったようです。

…では「お父さん」はいずこに?
ということになりますが、どうやらお父さんの方は、
誰だかわからなかったりすることもよくあったようで、
とりわけ他の地域から交易などでやってきたときは、
その時限りで、もう会うことがないということもあったようです。
けれども(近親婚を避け)子孫を残す、という目的は果たされるので、
それでオッケーだったのですね。

また、女性のほうは、子どもを産むことが出来る、
年齢になると妊娠・出産をするのですが、
ムラを存続させて子孫を残していこうとすると、
なんと二年に一回は妊娠をして、出産しなければ存続できなかったようです。
また、せっかく無事、赤ちゃんがうまれても、
乳幼児の内に大変多くの子らが虹の橋を渡ってしまい、
なかなか成人までなることは困難であったとのこと。
(縄文時代の平均寿命は15~16歳であったといわれます。
 それはその年までしか生きられないということではなく、
 幼い子どもたちが多く命を落としてしまうので、平均すると、
 その年齢ということなのですね)

また、お母さんにとっての出産という行為も、
まさしくいのちがけであったことでしょう。
そう考えると、土偶の姿に妊婦が多いのも頷ける気がします。
縄文の頃は、成人まで生きることが出来た男女は、
30歳ごろまでは生きたであろうとされていますので、
その間、一生懸命子どもを産み、育てて、
次世代に命を繋いでいってくれたのですね。

尚、こうした「母系」の社会を残したまま、
婚姻という歴史が紡がれていくのですが、
長らく「婿入り婚」というかたちで、男性が女性の家に通う、
というスタイルが平安時代まで続いていました。

女性が男性の家に嫁ぐというかたちは、
武家制度が出来た鎌倉以降の話で、
そこから「家」という意識が強くなったのです。
けれども、やはり性に関する意識はかなりおおらかで、
今現在の認識に至るのは明治以降の西洋的な価値観が
日本に導入されてからのことだったとのこと。

一方、子育て事情に関してですが、江戸時代も縄文的というのでしょうか、
皆で育てるという価値観は残っていたようです。
たとえば、子どもの親は、その子を産んだお母さんだけではなく、
妊娠中にイワタオビをおなかに巻いてくれる「帯親」や、
生んだときに取り上げてくれる「取り上げ親」
よく出るお乳を持つ親から、お乳をのませてくれる「乳親」、
上手く育った子育てをした親のところに一定期間預ける「拾い親」
(呪術的な意味合いなのか、いったん子を捨てた形にして、
別の親に拾ってもらうという状態)など、
たくさんの「仮親」がいて、皆でその子を育てたのですね。

…と、駆け足で婚姻と子育てのお話を綴りましたが、
今、ここに私という存在がいること、あることの奥には、
遥か昔から命を繋ぎ、
懸命に生きたご先祖様のお蔭があってのことを想うと、
胸がいっぱいになってしまうのですね。
自分のいのちは自分だけのものではなく、
多くのいのちと祈りの結晶としての「我」なのだ、と思います。

生かされているいのちであるということ。
だからこそ、他を生かすことのできるいのちとして、
我がいのちを悔いなく使ってあげたいと願います。

では最後になりましたが、今月の雅楽をお伝えします。
3月の雅楽は、宮内庁楽部が明治神宮にて演じた、狛桙(狛鉾)
という楽曲です。

「こまぼこ」と読むのですが、縁起については教訓抄の中に、
「この舞は、古人の説によると、高麗から渡ってきた時、
五色に彩った棹で船を差して渡ってきたところ、
やがて四人が肩に棹を掛けて舞い始めたもの」
と申し伝わっているとのことです。
雅で美しい舞楽ですね。

どうぞ時折、古代からの風を受けた、悠久の音色に耳を傾けながら、
古代と未来を繋げて、今をお楽しみくださいね。
それではまた、失礼します。
どうぞお元気でお過ごしください。

あけの会代表 はせくらみゆき

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